9 8月

「言葉なきコミュニケーション」

私が川崎市内の教会で副牧師をしていた時、週二回、地域にある養護学校に通っていた生徒達の送迎ボランティアをしていた。その頃のことを最近よく思い起こす。養護学校まで8人乗りの車で迎えに行き、授業の後、それぞれ特性の違うハンディーをもつ5名位の生徒さんを乗せて公園に行き、働きに出ているお母さんたちが帰る頃まで、遊ぶ姿を見守ることが日課であった。
二人の生徒さんが印象的に私の脳裏に残っている。一人は、公園に着くと真っ先に水飲み場に走って行く。言葉では、コミュニケーションがとれない女性であった。服をびしょびしょに濡らし、必死に水を飲んでいる。もう一人は電車が好きで、電車が近づいて来ると一目散にその電車に向かって走って行き、遮断機を乗り越え線路のギリギリのところにチョコンと座り、通過する電車の姿を見て堪能していた。私は、みんなが車から降りて、それぞれが違うところに走って行く姿を見て、はじめは平常心で見守ることができなかった。理由は、一人一人の安全性ばかりに気を取られていたからである。水飲み場に一目散に走って行き、服がびしょびしょに濡れるまで飲み続けている姿。遮断機を乗り越え危険をおかしてまで、電車が通過するのをみて堪能してよろこんでいる姿。コミュニケーションを取る方法がはじめはわからなかったが、相手が求めていることがわかるようになり、ようやく言葉なくともコミュニケーションがとれるようになってきた。すべてではないが、求めていることを拒否したり、邪魔するとパニックを起こすことも、安全と危険が表裏一体であることも、深く学んだ。ハンディーがあろうと、なかろうと人間として、互いに求めていることが何であるかを知るが、いかに大切かを学ぶ機会となるボランティアとなった。人間のありようをいろいろ学ばせてくれてありがとうと伝えたい。その中の一人が召されたことを知る。すべての人生に意味があると心にとめて、とこしえなる世界への旅立ちに手をあわせる。